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博多太郎の単身赴任日記
番外編 東京帰省
~福岡では自由。東京では、ただの48歳。~
金曜日。午後6時。博多太郎はパソコンを閉じた。「よし!」今日は金曜日。明日は休み。しかも――東京へ帰る。家族に会える。妻に会える。娘にも会える。そして何より、自分の家の布団で寝られる。「やっぱり家族っていいよなぁ……」しみじみする。その直後。スマホが鳴る。妻からLINE。「明日、何時に着く?」さらに娘から。「パパ、お土産よろしく」……。「感動の再会じゃないのか?」48歳。人生初の単身赴任。家族との再会。その第一声が、「お土産よろしく」である。「俺、人気者だな」自分に言い聞かせる。
福岡空港
座席に座る。太郎は窓の外を眺めながら、「東京かぁ……」少し感傷的になる。福岡に来てから、薬院で暮らし、警固で飲み、中洲で接待し、長崎へ営業に行き、熊本へ行き、一人でラーメンを食べ、一人でビールを飲み、一人でテレビを見る。自由だった。ものすごく自由だった。夜中にラーメンを食べても怒られない。風呂上がりにパンツ一枚で歩いても怒られない。冷蔵庫にビールしかなくても怒られない。そして、「今日、何食べようかな」と考えるのも自由。「……俺、結構いい生活してるな」そう思った瞬間。スマホが鳴る。妻。「東京着いたら、スーパー寄れる?」……。自由、終了。飛行機の中でビールを一本。「帰省のビールは格別だな」二本目。「これも帰省の醍醐味だな」三本目に手を伸ばしたところで、妻からLINE。「飲みすぎないでね」……。なぜ分かる。まだ飲んでいることすら言っていない。恐ろしい。太郎、ビールを一本、カバンの奥へ戻す。「……監視されてるな」48歳。東京から約900キロ離れても、妻の監視網からは逃れられない。
羽田空港
久しぶりの東京。人が多い。「多いな……」博多駅も人は多い。しかし東京は違う。人、人、人。「みんな急いでるな」太郎も急ぐ。理由はない。ただ、東京にいると急ぎたくなる。そして駅の改札。妻と娘がいる。「おー!」太郎、ちょっと感動。「久しぶり!」娘、「お土産は?」「お前はそれしかないのか!」妻、「おかえり」「ただいま」この瞬間は、やっぱり嬉しい。家族っていい。娘が笑う。妻も笑う。太郎も笑う。そして妻が一言。「で、洗濯物ちゃんとしてる?」……。感動、終了。
家に到着
玄関を開ける。「ただいま!」懐かしい。自分の家。ソファ。テレビ。家族の匂い。「やっぱり家はいいなぁ」荷物を置く。すると妻。「その荷物、そこ置かないで」「はい」「靴、揃えて」「はい」「上着、掛けて」「はい」「手洗って」「はい」……。太郎、心の中でつぶやく。「福岡では、誰にも怒られなかったのに……」わずか3分で、単身赴任モードから、「夫・父親モード」へ強制復帰。料理が並ぶ。魚。野菜。味噌汁。ご飯。太郎、感動する。「……うまい」妻、「普通のご飯だけど?」「いや、うまいよ」本当にうまい。一人暮らしで食べる飯もいい。しかし、家族と食べる飯は違う。娘が学校の話をする。妻が家の話をする。太郎も福岡の話をする。「薬院って、ほんと便利なんだよ」「へぇ」「警固も近くてさ」妻、「また警固で飲んだの?」「いや、仕事だよ」娘、「パパ、福岡で仕事してる時間より飲んでる時間のほうが長くない?」「そんなことない!」「本当に?」「……たぶん」妻、「長崎では何食べたの?」「トルコライス」娘、「また?」「またって何だ」妻、「熊本では?」「まだ行ってない」娘、「じゃあ熊本では馬刺し?」「……。」沈黙。娘が笑う。「絶対食べるじゃん」なぜ分かる。
食後
妻が皿を片付ける。太郎、「俺も手伝うよ」妻、「じゃあ食器洗って」「……。」福岡なら、食器がほとんどない。なぜなら、一人だから。しかも太郎の食事は、ラーメン。焼き鳥。弁当。居酒屋。食器洗いの機会が少ない。しかし東京では、家族4人分……ではなく、今は3人分。皿がある。茶碗がある。コップがある。「……多いな」妻、「普通です」太郎、「福岡では食器一枚で済むからな」娘、「それ料理じゃないでしょ」また負けた。
翌朝
午前7時。「……今、何時?」「7時」「早いよ」妻、「買い物行くって言ったでしょ」「……。」福岡なら、土曜日の午前7時。寝ている。午前9時。まだ寝ている。午前10時。「そろそろ起きるか」それが博多太郎の休日。しかし東京。午前7時。起床。「……単身赴任って、いいな」思わず呟く。妻、「何?」「何でもないです」
スパー
妻がカートを押す。太郎は後ろを歩く。「これ取って」「はい」「牛乳」「はい」「卵」「はい」「野菜」「……。」野菜コーナー。大量の野菜。太郎、「こんなに食べるの?」妻、「あなたが食べないから買うの」「俺、食べてるよ」「何を?」「ネギ」妻、「……。」娘、「パパ、それ野菜を食べたって言わないから」「ネギは野菜だろ!」「ネギだけじゃダメなの!」太郎、しぶしぶブロッコリーをカゴへ入れる。「これでいいだろ」妻、「それ、今日食べるからね」「……はい」
昼
家族で食事。太郎は久しぶりに、ちゃんとした野菜を食べる。ブロッコリー。ほうれん草。サラダ。「うまい」妻、「福岡でも食べなさいよ」「分かった」娘、「本当に?」「食べるよ」娘、「どうせ次のLINEで『ラーメンにネギ入れました』って言うんでしょ」太郎、「……。」完全に読まれている。
夕方
家族でテレビを見る。何気ない時間。太郎はソファに座っている。娘がスマホをいじっている。妻が台所にいる。テレビの音。福岡では聞こえない音だ。ふと、「こういうの、いいな」と思う。単身赴任。自由。楽しい。でも、やっぱり家族といるのもいい。すると娘が、「パパ」「ん?」「福岡、楽しい?」「楽しいよ」「東京に帰ってきたくならない?」「そりゃ帰ってきたいよ」「じゃあ福岡、寂しい?」太郎、少し考える。「寂しい時もあるな」娘、「じゃあLINEしてあげる」「おう」妻がキッチンから、「毎日LINEしてるじゃない」「そうだった」娘、「でもパパ、返信遅い」「仕事だからな」娘、「絶対飲んでる時あるでしょ」「……。」妻、「あるね」太郎、「なぜ分かる!」家族の勘、恐ろしい。
日曜日
自宅。福岡へ戻る日。妻、「忘れ物ない?」「ない」娘、「お土産、次はもっと買ってきて」「俺は運び屋じゃないぞ」妻、「ちゃんと食べてね」「はい」「野菜もね」「はい」「飲みすぎないでね」「はい」「夜遅くまで飲まないでね」「はい」太郎、思う。俺、48歳だよな?完全に、高校生の帰宅前である。新幹線に乗る。発車。東京の街が遠ざかる。少し寂しい。でも、スマホが鳴る。妻。「着いたら連絡してね」娘。「パパ、福岡でもちゃんと生きてね」太郎、「了解」笑う。
福岡
薬院。自宅。玄関を開ける。静か。シーン。「……ただいま」返事なし。当たり前だ。靴を脱ぐ。荷物を置く。ソファに座る。「……やっぱり一人だな」冷蔵庫を開ける。ビール。一本。そして、東京で買ってきた野菜。冷蔵庫に入れる。「……。」しばらく見る。ブロッコリー。ほうれん草。「俺、ちゃんと食べるからな」誰もいないのに宣言する。ビールを開ける。プシュッ。スマホを見る。妻から、「野菜食べた?」まだ食べていない。太郎、「今から食べます」送信。そして、ビールを一口。そのまま5分。野菜を見る。ビールを見る。もう一度、野菜を見る。「……明日でいいか」しかし、その瞬間、娘からLINE。「パパ、野菜食べた?」……。「お前ら、連携してるだろ!」48歳。福岡では一人。しかし、東京には、二人の監視員がいる。そして太郎は、仕方なく野菜を食べる。「……うまい」少しだけ誇らしい。そして、「よし。今日は健康だ」ビールを飲む。一人暮らしは自由だ。でも、完全な自由ではない。東京から、ちゃんと家族が見ている。それが、ちょっと嬉しい。……ただし。警固の誘惑まで、東京から監視することはできない。時計を見る。午後9時。太郎、立ち上がる。「……ちょっとだけ行くか」スマホを見る。妻からのLINE。「飲みすぎないでね」太郎、スマホを伏せる。「……一杯だけ」48歳。人生初の単身赴任。東京に帰れば、ただの父親。福岡に戻れば、また営業マン。そして夜になれば、ただの飲んべえ。博多太郎の単身赴任生活は、まだまだ続く。